コラム目次

会長語録集

マジックボーイ
プロマジシャンとアマチュア
マジックの種と
りんごの種

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CBファミリーについて
コミュニケーション

マジックと将棋

見破れるか!
驚異のカードマジック

著書「カードマジック19の秘宝」のまえがきより転載
 マジックは男女を問わず、子供から大人まで、好きだという人が沢山います。たいていの人が不思議なことが一つくらい出来たら・・・と思っているものです。
 にもかかわらず、日本にはマジックの良い入門書がありません。本屋さんで買ってみると、本当に文字通り子供だましの、かなり拙劣な作品を載せていて、マジックそのものを誤解させてしまうようなものが少なくありません。そうかと思うと、入門書というのに技術や解説が難しくて、読んでいるうちに頭がいたくなって肝心なマジックが嫌いになってしまいそうな本だったりします。
 また、マジックはやってみたいけど、「指先が器用じゃなけりゃ駄目なんでしょう」とか、「難しそうだから私には」と、敬遠してる人も多いようです。 マジックは、本当に楽しい趣味です。沢山の人に、そのマジックの楽しさを伝えたいと思い、今までにないカードマジックの本を書いてみようと思いました。だから、この本は、「今日、トランプを買ってきた誰もが、今日練習して明日出来る」が目標になっています。
 しかも、手先が器用でなくてもOK.難しい技術の練習も要らない。そして、ほとんどが今まで世の中に発表されていない私のオリジナルな作品ですから、この本のマジックを出来る人は、あなたと、そして、この本を読んだ人だけということになります。ただし、やさしいからといってバカにしてはいけませんよ。やさしくてもプロのマジシャンが舌を巻くような素晴らしい作品ばかりなんです。しかも、プレゼンテーションを面白くしてありますから、ほとんどの作品が、楽しいストーリーを話しているうちに自然とマジックになっていくように作られています。
 そして、マジックはエンターテインメントであり、覚えて友達をびっくりさせられる道具であることは勿論ですが、私は、最高のコミュニケーションツールだと思っています。
 最近、大学生の生活相談所というのがどの大学にも設けられ、生活力の低下が言われています。色々な生活上の問題の相談に乗るわけですが、中で一番多い相談が、「友達が出来ない」、「友達の作り方がわからない」というものだそうです。
 友達を作るのに一番大事なことは、楽しいこと、面白いことを相手に伝えてあげようとする心です。人から何かを貰おうとするのではなく、素敵な情報を見つけて、それを渡してあげようといつも考え、実行していたら、友達は自然に多くなり楽しい環境の輪が作られていきます。マジックは、そんな、友達が喜んでくれる情報の最たるものなんです。
 さあ、今日から、早速、この本を片手にマジックワールドに入門して、家族や友達や彼氏や彼女たちを大いに楽しませてあげて下さい。うまくなればなるほど、あなたの生活環境は楽しくなり活性化していくはずです。そして、マジックの中でもカードマジックは最高のジャンルです。
 カードマジックの素敵な面は、面倒くさい用意も、難しい道具も必要ないことです。何の仕掛けもない普通のトランプを一組。それをポケットやバッグに持っているだけで、あなたは今日から素敵な魔法使いになれるんです。

プロマジシャンとアマチュア
 
マジシャンの世界では、アマチュアとプロの境界線を引けと言われたら難しいことになりますね。ステージマジックはともかくとしても、クロースアップマジックのジャンルにおいては、とくにそんな感が強いです。欧米のクロースアップの奇術家と称される人たちで、研究家という肩書きが付いていれば、それはアマチュアの代名詞みたいなものです。エド・マルローを始め、アレックス・エルムズリーやブラザー・ジョン・ハーマンなど、かなり有名なアマチュア・マジシャン達が、研究家の名で親しまれて来ています。また、多くのアマチュア・マジシャン達が、プロのマジシャンやマニアの人たちに大きな影響を与えていることも事実です。
 日本の一部のマジシャンに、プロとアマとの区別を大げさにして、アマチュアから物を学んだりすることを権威がなくなると思うのか神経質に嫌っている人もいますが、アマチュア・マジシャンの存在、あるいはその開発能力や知識が無かったら、現代のマジックがここまで進歩することもなかったでしょう。マジックは、アマ・プロ問わずに、人間が楽しむためのステキな道具です。アマとプロが、いい意味での垣根を取り払って、日本の、あるいは世界のマジック界に大いに貢献出来たら・・・という、それが僕がマジック会を開いて多くの人たちと交流している所以です。
 それでは、アマとプロの境は無いのかというと、そんなことはありません。アマチュアとプロマジシャンの違い、僕の識別方法は簡単です。そのパフォーマンスがエンターティンメントかそうでないかで区分けをするんです。
 例えば、欧米のマジシャンの出しているマジックの解説ビデオがあります。大抵は、マジシャンがまずパフォーマンスを見せてから、そのマジックについての演じ方や、種の作り方などを教えてくれます。このときのマジックのパフォーマンスが、研究家であるアマチュアマジシャンですと、何となく暗く、ただ不思議な現象があるだけでエンターテインメント性が薄いんです。
 片や、プロフェッショナルのパフォーマンスになると、種がどうとか、不思議さがどうとかいう以外に、プレゼンテーションや持ち味で、観客を終始あきさせず、十分に楽しませてくれます。
 ステージのプロマジシャンは別として、日本のクロースアップ・マジシャンのプロの人には、どちらかと言うと、この欧米の研究家の気質を引き継いでいる人を多く見かけますね。また、そうした研究家気質のアマチュアが、マジック雑誌にマジックの解説をするのではなく、演出論などを書いたりしているのも見かけます。そんな解説記事を見ていると、日本の混とんとしたマジック状況を象徴しているようで淋しさを感じてしまいます。
 マジックの演出の基本はあくまでエンターティンメント性を重要視すべきであり、そのアイディアやプレゼンテーションによっていかに観客を楽しませるかを中心に解説して行くべきなんです。
 もちろん、アマチュアであっても、エンターティンメント性はマジックの大事な要素です。「人を楽しませるマジック」をぜひ身に付けて欲しいというのが、もうひとつ、僕が本を出版したり、マジック会を主催している目的です。
 人と人とが仲良く出来る理想的な環境を作っていくには、やはり、アマチュアといえど十分に人を楽しませられるマジックを演じなければなりません。「プリンあらモード会」に遊びに来て下さい。楽しいマジックを、そして人生を一緒に楽しみ、勉強しましょう。戻る

見破れるか! 驚異のカードマジック

このテレビ番組批評の文章は、以前にここに掲載してあったものですが、そのとき、名前を伏せていたマジシャン名を他のサイトの方が明らかにしてしまったため、ご本人の気分を考え、コラムから抜いてあったものです。
 それを再載した理由は、「プリあら・メルマガ」にも書かれていましたが、10月に放送されたスペシャル番組第二弾において、ここに書かれたことが素敵に反映されていたからです。番組の関係者のどなたか、あるいは、ご本人が、コラムを読んで共感されたものか、あるいは自主的に考え出されたことは分かりませんが、喜ばしい事に、番組の姿勢が大きく変わったのです。
 「世界最高峰の技術とエンターテイメント、その奇跡にだまされることを楽しみながら見ていただけたら幸いです!!」との制作側からのメッセージもあり、タネを見破ろうとするえげつない姿勢は影をひそめ、番組中ではカメラマンまでがタキシードを着用している個所などもあり(このコラムへのメッセージもこめられていたのかと、勘ぐるほどでしたが)、番組は、マジックのエンターテインメント性を前面に打ち出しての構成がなされていました。
 このコラムに書かれたことは、あるマジシャンを誹謗しているようにも見えますが、マジック番組に対する正直な感想でもあります。というわけで、番組内容が変わり、マジックへの偏見が正されたことを喜びを、ここに再載することにしました。

 「見破れるか! 驚異のカードマジック」というテレビ番組を、会員の方がビデオに撮っていて見せてくれました。凄いタイトルです。カードマジックは見破るためのものだ、と教えている番組に、なんと、一人のプロマジシャンが主役ぜんとして出演していました。
 カメラが四方八方からのぞきみるようにマジシャンの手元のクロースアップを映します。何人ものタレントの人たちが、ストリップのかぶりつきにいるように、そのマジシャンの手元10センチくらいのところまで下品な顔を寄せ合って、裏から横から種を暴こうとします。
 誰も、マジックの華麗さや、ファンタスティックな部分を紹介しようとも、見ようともしません。 ただ、ただ、2時間、暴くことに専念するカメラとタレントたち、そして、アンビシャスカードやカード・イン・レモンを、そんな場に臆面もなく披露しているプロマジシャン。
 外国の番組なら、観客の中にタキシードやドレスを着て参加している品の良い紳士淑女が必ずいます。そして、種を暴くことではなく、その魔法をエンターテインメントとして心から楽しんでいます。結果、アメリカン・ドリームの世界が現出します。デビット・カッパーフィールド、ジークフリートたちは、スピルバークやジョージ・ルーカスと並んで高所得者の位置にいます。
 アメリカやヨーロッパには、マジックの世界にあこがれて、ときには家族ぐるみで、あるいは夫婦で、日夜練習に練習を重ねて、素敵なマジックを演じ人を驚かせ、喜ばせ、そしてアメリカン・ドリームを実現しようと努力している人たちが沢山いるんです。
 日本は、どこからどう間違えて行ったのでしょう。しかも、マジシャンが企画の段階から、マジックは暴くものと教える番組に参加しています。
 彼にはマジックを愛する気持ちがないのでしょうか。お金や、名声がそれほどまでして欲しいんでしょうか。マジックを暴くものなんだとテレビを通して、子供たちや観客に教えることが、どういうことか分かっているのでしょうか。
 沢山の人たちが愛する素敵なマジックを、詐欺や犯罪のように見せることに協力して番組を作らなければ、日本では有名にはなれないし、マジシャンとして存在することが出来ないのでしょうか。
 マジシャンとして生きているという生き甲斐、自分自身の信念みたいなもの、それがあったら、マジックに対して限りない感謝が生まれるはずですし、そんな番組には死んでも出演したくないと、誰でもが思うはずです。しかし、日本は不思議な国です。そんなマジシャンが一流とされてしまうのですから。
 番組では、彼が元総理と友達だとか、各界から認められているマジシャンとして紹介され、権威づけされようとしていました。
 しかし、僕の目には、自分のためならマジックの世界や、子供たちの夢を汚しても構わない、友達を犠牲にしてまで自分を売り出そうとする、そんな一人の貧相な人物が写っていただけでした。

映画「マジックボーイ」(原題・The Escape Artist)
制作・フランシス・F・コッポラ
監督・キャレブ・デシャネル
公開・1982年
 主演の少年ダニーには、姉にテータム、父にライアン・オニールという芸能一家に生まれたグリフィン・オニールが粉しています。
 父にハリー・マスターズという希代の脱出名人を持ったダニーは、その影響でマジシャンとして脱出の名人として、世に出ることを夢見ているのですが、ハリー(父親)は自分の腕に過信し悪事に手を出し捕らえられた上に脱獄を計って殺されてしまいます。孤独なダニーは、メンタルマジックで生計を立てているおばさん夫婦の家を訪ねます。
 物語は、そこで、精神病院に入ったり出たりしている市長の息子・ステューと知りあうことから始まるのですが・・・。
 この映画を制作するに当たって、40人くらいのマジシャンにコッポラは会っています。その中からリッキー・ジェイが、まず、グリフィンのマジック技術のコーチを勤めることになり、錠前破りの専門家であるビル・ライルズ(Bill Liles)など、強力スタッフを組んで、数ヶ月の特訓をほどこしています。その結果、リッキーをして「彼と同じ腕を持つものは、ごく少ない」と言わしめるほどにグリフィンは上達します。もちろん、映画の中に出てくるマジックはすべてグリフィン自身の手によって行われます。
 また、この映画のマジックの装置はすべてジョン・ゴーン(Gohn Gaoghn)が手がけています。日本でも、劇団四季にイリュージョンを提供したり、ディズニーランドの演出にも絡んでいる噂があり、カッパーフィールドも彼のイリュージョンを多用しているそうです。彼の工場は、ロスとラスベガスの中間地点にあって、有数のマジックコレクターとしても有名です。ダーク広和さんが、「独特の洗練されたデザインで、見るとすぐにジョン・ゴーンだと分かりますよ。何せ、かっこいいです。私は高嶺の花だと諦めているところがありますが」とおっしゃっていました。実際に図面との打ち合わせを重要視するようで、飛び込みでは、決して作ってくれない巨匠だそうです。
 その他のマジックやマジック道具の使い方としても、これほどマジックが映画に溶け込んだ例というのも珍しいでしょう。中に、マジシャンやマジックファンが、必ずと言って良いほど感動する場面があります。ダニーが死んだ父を思い出し、その父、ハリーの体が浮遊して消えるところです。マジックを使って、人間のもつ哀愁や愛情などの感情をこれほどうまく伝えたシーンを、僕は他に見たことがありません。
 R・ジェイの他のマジシャンとしては、マーク・ウィルソンやフランク・ガルシアの名がスペシャル・サンクスに連なっています。マジックファン、あるいは、マジシャンを目指すなら必見の映画じゃないでしょうか。戻る

財産共有のお話
 
ある時代に生まれて、人が人と知りあえる数というのは、かなり特定されていますし、本当にわずかな必然が組み合わされた結果と言えるでしょう。
 だから、人のつながりは限りなく大きな財産といえます。人もそうですが、物事も、やはり、巡り合いがあります。たとえば、マジックの楽しさに巡り合えるということは、やはり、ほんのちょっとしたきっかけからです。楽しいマジックに出会えない人は一生、自分がマジックを好きだということすら気づかずに生きてしまうかもしれません。
 話は突然飛びますが、「ジュニア」という映画があります。コメディーですが、しっかりしたテーマをふまえて作られた素敵な作品です。ビデオで見られてつまらないと感じた方もいるかもしれませんが、映画をビデオで見たのでは、その良さの10分の一も分かりません。イリュージョンのマジックを14インチのテレビで見て、批評するのと同じくらいナンセンスなことです。
 この映画のメイキングで、監督のアイバン・ライトマンがコメディーについて面白いことを言っていました。「面白い出来事というのは、その出来事が面白いのではなく、人と人との関係の中に起こるからこそ、出来事が面白く見えるんだ」と。
 マジックにもあてはまるでしょう。不思議なマジックだからと、その現象だけをとらえていたんでは、人にその不思議さや魅力は伝わりません。相手と自分の関係があってマジックの面白さは成立してるんです。「どうだ不思議だろう」というだけでは、相手は種を見破ろうとするだけでしょう。それでは、いつまでたっても「マジックより、種のない超能力の方が上なんだ」と思われ続けてしまいます。
 マジックの方が超能力よりずっと優れていることは、色んな点から解説できますが、たとえばひとつ、マジックは集まった人たちを煙にまいたり騙したりするのではなく、楽しさを共有できる媒体になるという事です。
 マジックを演じるとき、そこにいる人たちと、同じ時間を共有している、「みんなでその時間を楽しめるぞ」という感覚でマジックを行えば、集まった人と人とが自然に良い形でつながって行きます。演者も観客も、やる人も見る人も、人が生きている間の、ある同じ時間を共有してるという事です。
 先日、僕の身辺で、マジックの創作に関する盗作うんぬんの話がありました。もちろん、人の作った作品を何も言わずに自分の書いた本に載せることは、良いことではありませんし、人の権利も侵しています。まして、著作権の確立していないマジック界では、卑しむ行為です。少なくとも作者にことわるとか、クレジットを入れることくらいは、同じマジックを楽しんで生きようとする者同士なんですから、仁義としても必要なことです。
 ただし、作ったものというのが、権利を持つことについて否定しようとは思いませんが、作れるという才能は誰から授かったものかなんです。
 世の中には音楽を作れる人もいれば、作れない人もいます。それでは「作れる人はラッキーで、曲を作ってお金をもうければ良いし、作れない人は、残念でした」と、そう簡単に割り切れるものでしょうか。
 僕の考え方は、自分の持っている才能というのは、そこに生きる人たちすべての共有財産ということなんです。同じ時代を生きる人たちと一緒に少しでも楽しもうとするとき、自分に授(さず)かった才能を自分のお金もうけのためだけに使って良いとはとても思えません。できるだけ、色々な人たちにそれを利用してもらい、一緒に人生を楽しめる役に立てばと考えます。人それぞれ違います。ですが、そういう考え方から見れば、意固地になって「これはおれの作ったものだから、著作権侵害だ!」とわめくのも考えものです。
 僕自身、ある歌手に自分の作品を盗作をされた経験があります。周囲のファンの人たちは激怒していました。僕もいやな気持ちにはなりました。おまけに、その歌手のファンの人から電話があり、「あなたの作った歌は、○○(その歌手)の作った××に似ています。盗作して汚いですね」と言われました。レコードの発売の日時を調べれば、どちらが先に発表されているかはすぐに分かることです。
 そのとき、ある雑誌に載せたエッセイの中に、次のような文を残しました。

 ”盗作したのか影響されたのか、でも僕は、○○くんに文句をいうつもりはありません。ただ、ひとつだけ、知っておいてほしいことがあります。
 うちの猫が死んだとき、わずかな間だったけど、世の中に彼女が生きていたことを証明してあげたくて、この歌を作ったということです。この歌があるかぎり、うちの猫は永遠に歌を聴いた人たちの心の中に生きてくれるんじゃないか、と思ったことです。だから、○○くんが、その歌を歌うとき、ベティという猫が生きて居たんだな、荒木の家にはそういう猫がいたんだ・・・、と思って歌って下さい”

 同じ時代に生きる、同じ地球に生きる、同じマジックを愛する、それぞれがその時代にある共有の財産なんだ、と僕は考え、出来るだけそれを分かち合い、楽しみたいと思っています。
 さて、その後、○○くんの歌は大ヒットして、彼は、シンガーソングライターとして押しも押されぬ大スターとなりました。うちの猫のおかげなんです。「たった一匹の猫の死が、おれをスターにしたんだ」と、○○くんは思ってるんでしょうか。それとも僕の書いたエッセイには巡り合っていないのでしょうか。死ぬまでの間に、いつか機会が訪れたら、そのことを訊ねてみたいなあと思っています。
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 CBファミリーの主旨
 
「プリあら会」では、毎年クリスマスになるとパーティーが開かれます。このパーティーの主催は、「プリあら会」ではなくCBファミリーが担当しています。このファミリーの主旨について記しておきます。 
 CBファミリーとは、「Circle Of Best Friends 」の略で、「プリあら会」の会長である僕(荒木一郎)が主催する個人的なサークルです。
 営利団体ではありませんし、会費も会則もありません。人生において、出会った友達たちを大切にして行こうという主旨のもとに運営されています。以下、ファミリーの案内文です。

 生きていると、友達から友達へと自然に友達の輪が広がって行くものです。私からは、音楽を通して知りあった友達もし、学校時代の友達、芸能界やマスコミの世界の人たちもいます。そして、マジックを愛する人たち、色々なビジネスを通して知りあった仲間、将棋界や切手趣味の世界、それに、家族のつながり・・・と、今まで色々な友達の輪が生まれて来ました。

 そうした友達の中にベストフレンズを確認し、大切にしていくために、CBファミリーとして、年末に一緒に集い、楽しく遊べるクリスマスパーティーを催そうと計画しました。
 作り手側と参加する側の枠はありません。同じ仲間です。ですから、当日、参加する全員が、自分たちのクリスマスパーティーだと感じられるようなパーティーにします。
 芸をするとか司会をするとか、パーフォーマンスをして舞台の上に参加するのも良いし、会計とか制作とか裏方をやるのも良いでしょう。あるいは観ることに意義を持つのもかまいません。
 このCBファミリーのクリスマスパーティーを、年の終わりに、必ず催していきたいと思っています。それも、一生続けて。

 2008年は、第21回目にあたり12月27日・品川のホテルパシフィックにて行われます。友達こそ人生における最大の財産です。
 クリスマスになったら「今年は、この人と友達になったなあ」と確認してパーティに誘って下さい。人生を歩むに連れて、みなさんの友達の輪がだんだんと広がって行くことを期待してやみません。

荒木一郎

コミュニケーションについて
(このコラムは、旧「プリあらホームページ」の2001年4月29日と6月10日に書かれた、一連の「治ちゃん日記」を中止する問題に対しての僕の意見です。)

 人と人とのコミュニケーションは、人間の生活にとって一番大事なことですが、学校でも家庭でもなかなか教えてくれません。ですから、どうやって人と付き合って行ったら良いのか、「学ぶことが出来ない」と訴えてる人が沢山います。でも、学ぶことが出来ないと思っている人は、まだ良いほうです。コミュニケーションの勉強の必要性すら感じていない人の方が、むしろ多いかもしれません。
 結果、人との間に問題が起こったとき、すぐに相手のせいにして怒ったり、泣いたりする人、何が原因かわからずじまいのまま問題は解決せず、同じ問題を繰り返しては、いつのまにか自分の人生を貧しい環境にしてしまう人たちも、世の中にはいっぱいいます。
 マジックは、コミュニケーションの問題を勉強するために、教科書のような、あるいはシュミレーションのようなものだと、いつも人に語ってきました。マジックは、種がどうだとか、不思議だとかの前に、そこに集っている人と人とが、楽しくなれる、あるいは仲良くなれる触媒のような役割をすることに大きな価値があるんです。
 マジックが出来ても、自分勝手にやっていたのでは、見てる人が、むしろ気持ちを引いてしまうかもしれません。押し付けがましいマジックを見せられたために、マジックは嫌いだと言いきってしまっている人もいます。
 プロでもアマでも、自分の演じたことが、相手にどう伝わっているかを知ることは、とても大事なことです。相手を楽しませてあげようと思ってやったにもかかわらず、相手は逆に嫌な思いをしてたりすることだって、人生では、しばしばあることです。楽しいはずのマジックが、相手にとっては退屈きわまりないものだったら、これは問題ですし、プロが観客にそれをやってしまったら犯罪に近いものになります。
 だから、人とのコミュニケーションを大事にしようと思ってマジックをやっている人は、自分と相手との間にずれが生じていることが解ったら、すぐに改善しようと心掛けます。そうしないと、それから後の人生が自分の思っていない方向に知らず知らずに行ってしまう危険があるからです。プロのマジシャンだったら、営業活動にも大きく響くことになるでしょう。
 本題に、入りましょう。
 「治ちゃん日記」というページを企画したとき、まず考えたことは「今のマジック界にとって、とても大切なことなのに無視されてること」をテーマにしようと思いました。それは、「若い年代の女性がマジックに興味を持つこと」です。マジック界のプロやアマの方々が、若い女性のファンの気持ちを理解して、マジックの裾を広げてほしいという気持ちが、まずありました。
 マジックの会や、催し物を観ると、層が限られている感じがします。こんなに楽しいマジックなのに、若い世代、とくに女性のファンが本当に少ないんです。同じエンターテインメントでも、音楽や演劇などの世界では、沢山の若者たちがひしめいていますし、次の世代を担う、あるいは、現状を支える若い女性は大勢います。
 それでは、マジックには、若い女性が向いていないのかというと、そんな事はありません。男性よりずっとマジックを楽しむ資質を持っている人だっています。げんに、「プリンあらモード会」では、沢山の女性の会員やビジター(特に、美人が多い)が例会をにぎわしてくれています。
 世の中には、沢山のマジックの会合があります。その運営されている方達の参考に、あるいは、アマチュアマジックを楽しくやろうとしている人達の参考に、あるいは、プロマジシャンで、女性のファンをもっと獲得しようとしている方達のために、「治ちゃん日記」を存在させようと考えました。
 「治ちゃん日記」は、今のマジック界で、「ああいう世代の意見が聞ける唯一の機会だ」と言ってくれているプロマジシャンの方もいます。また、「素人が、プロの芸に口を挟むべきではない」と言われる方もいます。今回も、「治ちゃんに舞台のことがどれだけわかるんだ!」「演出家でもないのに!」「だんだん評論家風になってきた」というメールを戴きました。
 かたわら、心強いことに、ヒロサカイくんのような、理解を示してくれるプロマジシャンの方も、沢山居てくれます。会員の方々からの励ましのメールも戴きました。
 初心貫徹。「治ちゃん日記」は、日記のファンの方達のために、また、支持して下さるプロの方たちのために再開すべきでしょう。ただし、再開するにあたって、今までよりもっと楽しくする必要もあります。「雨降って地固まる」です。これからは、一人の女性マジックファンである治ちゃんの「マジックがあるからこその」個人的な日常も書いてもらいたいと思っています。
 誰かが、何人かの相手に話をしてるときに、たとえば、話し手の鼻に鼻くそがぶら下がっていたとします。その鼻くそに気がついたとして、だれが注意をするでしょう。注意したら、「ああ、どうもありがとう」と素直にその人は、答えてくれるでしょうか。猫の首に鈴をぶら下げるような危険を誰がおかすでしょう。でも、その人に愛情があるなら、恥をかかせないために出来るだけ早くにそのことを相手に伝えなければなりません。あるときは、そっと秘かに。また、他の誰かにも有効なときは、公の場で。
 「プリンあらモード会」は、常にアマチュアのマジシャンとプロのマジシャンのために、そして、マジック界がより良くなるためにお手伝い出来るよう、マジックを愛する気持ちを根底に据えて運営して行く所存です。
 これからも、よろしくご指導下さい。戻る

 マジックと将棋
 
今、カードマジックのテクニックを覚えるための入門書と、将棋の事典と二つの本を同時に書いています。両方ともにやりがいのある仕事ですが、入門書の方は、もちろん、かなり面白いマジックや解説を書くつもりでいます。今回は、日本の出版業界では初めての試みである、マジックの解説書にCDをおまけで添付しようと考えています。
 将棋の事典は、日本で初めてのものです。採録用語の数も、すでに800用語以上になっています。どこまで取り上げるかが問題です。棋士の人たちの日常会話の中に見られる特殊用語も数多く採用しています。
 仕事をするときの信条として、僕は他の誰も出来ないと思える仕事を引き受けるようにしています。本を書くときも、音楽を書くときも、芝居をするときも、誰もがやれる物だったら、やっても面白くありません。
 どんな仕事を受けるときでも、なぜ、僕に頼むのだろう、他に誰か、この仕事をできる人がいないんですか、と発注者に念を押します。
 発想として、ちょっと、分かりにくいかもしれないので、例を出してみよう。

 あるとき、僕の家に遊びに来た一人の男のかけていた眼鏡を見て、
 「それって似合わないって思わないの。似合わない眼鏡を買って来るってのは問題の行為なんだよ」
 と、話しました。つまり、「自分以外に、それが似合う人が必ずいるはずだから、その人の買うべき眼鏡を君が間違えて買ってきてしまったってことだ。それは、眼鏡にとっても不幸だけど、買えなかった、誰かさんにしても不幸だよな」
 「気持ちのこもったグッズは、誰かのために作られてると思ったほうがいい。自分のために作られたと思えるような物だったら、金があろうとなかろうと、躊躇せずに買うべきだし、そうでないものを買うと、何か辻褄があわなくなりそうだ」
 というわけで、仕事でも、自分じゃない人がやった方がいいものを自分がやったりすれば、誰かの仕事を奪うだけではなく、世の中に素敵な物が発表されるのを妨げてしまったことにもなりかねません。自分の才能に見合ったものを仕事としても受けるべきなんです。
 今までにないこの二つの本、出版されることを楽しみにしていて下さい。