☆☆☆
ダイ・ヴァーノン

Dai Vernon
(1894-1992)

 プロフェッサーと呼ばれ、愛された、スライハンド・マジックの大家です。「もしあなたがマジックの芸術家になりたければ、他のすべてを捨てる気持ちでなければならない」と後続のマジシャンに指導するだけあって、人生をマジックに捧げた情熱は、誰もが称賛するところです。常に、マジックは技術だけではなく、パフォーマンスの細部にわたってナチュラルでなければならないと主張し、その教えはヴァーノン・タッチと呼ばれ色々なマジシャンの中に息づいています。
エド・マルロー

Edward Marlo
(1913-1991)

ダイ・ヴァーノンが東の横綱なら、この人は西の横綱に値するクロース・アップ(特にカード)の研究家です。「マルロー・マガジン」を初め60冊以上の著書を記し、雑誌その他に2000以上のマジックやアイディアを提供しています。エレベーターカード、油と水などマルローの手順で有名になったものが沢山あります。飛行機嫌いで、シカゴから出ることがほとんどなかったと言われていますが、多くの研究家やクリエーター達が彼の家を訪れ影響を受けています。マジック界に大きな足跡を残した巨人の一人でしょう。
デビッド・
カッパーフィールド

David Copperfield(1956-)

万里の長城を通り抜けたり、7トンのジェット機を消して見せたり、大掛かりなイリュージョンをテレビというメディアを通してアピールし、マジックの面白さを世界中に知らしめた功績は、非常に大きいものでした。20年で500以上の大ステージをこなし、年収100億円以上を稼ぎ上げる彼ですが、ここ5,6年における彼のショウ、あるいはパフォーマンスの低下は、往年のダイナミックかつ華麗なステージを知る者にとっては、なんとも残念でなりません。
ジークフリード&
ロイ

Siegfried&Roy

「ラスベガスでマジックは絶対に成功しない」と言われ、クロージング・アクトとしてはどのホテルもマジックを採用してなかった70年代半ば、突如として現れたドイツ生まれの二人組は、ギャンブラーの街に一大奇蹟を起こしました。本物の象や有名なホワイトタイガーなどの野生の動物を使う幻想的なマジックは、アメリカでナンバーワンの地位をもらたらしました。日本でも88年から9年にかけて汐留にテント劇場を建設し素晴らしいイリュージョンの数々を見せてくれました。
ハリー・フーディニ

Harry Houdini
(1884-1926)

脱出の名人。アメリカでは超有名なマジシャンで、伝説の人ですが、生前は、彼の新しいパフォーマンスは常にテレビのトップニュースとして扱われていました。日本では「魔術の恋」というトニー・カーティス主演の伝記映画が公開されていますが、アメリカほど有名ではありません。最近では、実話を元にしたというイギリス映画「フェアリー・テイル」の中でハーヴェィ・カイテルがフーディニを好演しています。彼のいくつかの監獄からの脱出を評して、アメリカには次のような言葉が残っています。「地球上に存在するあらゆるものが、フーディニを捕らえておくことは出来ない」
ハワード・
サーストン

Howard Thurston(1879-1938)

指先からカードが出現したり消失したりするカードさばきにかけては、世界で最も優れたカードマニュピレーターであると評されています。しかし、芸の巾は広く、有名なのは拍手喝采で迎えられる彼のフィナーレのアクトです。客席の一番前に座っている紳士の襟元から、あばれるあひるを取りだすパフォーマンスは秀逸だったそうです。マジックを行う心得として、1)あらかじめ現象を話さない 2)同じマジックを続けて行わない 3)種を明かさない・・・という手品の三原則は、サーストンの名が冠されることによって有名になりました。
ランス・バートン

Lance Burton(1956-)

沢山のスタイルを持ったマジシャンとして有名です。77年に少年部門でアボットのコンペティションで優勝してから、FISMグランプリをはじめ、数々の異なる部門の賞を勝ち取ってきました。ケーンやロウソク、鳩だしなどのサロンマジックのアクトは他の追随を許さぬくらいにしなやかで美しく、一度見たら誰もが虜になることでしょう。そして、ついにマジシャンとして初めて、ラスベガスに自分の名前を冠したシアターを持ち、そこでの大成功をおさめ年収100億円を越すスターの一人となりました。
ハーラン・ターベル

Harlan Tarbell
(1890-1960)

ターベルの名声は、そのパフォーマンスやレクチャーから得られたものではありません。彼は、マジックの通信教育を世界で初めて行いました。大々的にはじめた割には結果は芳しくなく、その後、マジックのイラストレーターとしてカタログや道具類の解説書の挿し絵を描いたり、有名なものでは「Greater Magic」があります。後年、マジックディーラーのタネンが彼の通信教育講座を買い取り、「ターベル・コース」として全7巻(現在は8巻をテンヨーで翻訳)を発売し業界に大好評を博しました。あらゆるジャンルのマジックが解説されているだけではなく、どうすればマジシャンとして成功するかの教育書にもなっています。
ダロー

Daryl Martinez(1955-)

日本には何度も来日してレクチャーをしています。プレゼンテーションの楽しさ、技術の確かさを共に持つ、超一級のエンターティナーです。ロープトリックも有名ですが、カードのテクニックにかけては「Encyclopedia Of Card Sleights」全8巻のビデオが、現代のクロースアップマジシャンを目指す人たちの必修コースになっているほどです。ポール・ハリスを有名にした陰の功労者として、彼を忘れることは出来ません。2000年9月、新婚1年目の奥さんと一緒に来日し観光旅行のかたわらレクチャーを催しています。
ラリー・
ジェニングス

Larry Jennings
(1933-1997)

 Visitorなど数々の素敵でユニークなカードマジックを世に発表し、沢山のファンを持つカードマジック研究家であり、バーノンの愛弟子の一人です。日本には二回来日していますが、80年の10月、会長宅に寄ってマジックを披露してくれました。体が大きく、リビングの籐のイスがつぶれそうだったそうです。手も、カードを横にしてパームしても十分余裕のある大きさですが、実演はそれほどうまくはなく、会長の奥さんに「カードがここにある」と言われ、パームしている手を無理やり裏返しにされました。そのときのジェニングスの顔ですか? キョトンとした顔をしてたそうです。
アンネマン

Theodore Annemann(1907-1942)

マインドリーディングなどのメンタルマジックのジャンルを確立した天才。超能力といっても、おどろおどろしく演じるのではなくシンプルかつダイレクトが彼のプレゼンテーションの神髄です。34年に彼が発行した「JINX」は、4ページの月刊のマニュスクリプトですが、多くの実力派の執筆者が名を連ねていて、今でもそのアイディアは新鮮です。また、彼の死後50年たって発行された「Annemann/The Life and Times Of a Legend」には、彼の考案したマジック以外に、広告や写真、データーなどが600頁以上にわたって掲載されています。彼を知るには良著です。32才にして自らの命を断ったアンネマンですが、その近代メンタルマジックの父としての功績は、マジック界に今も生き続けています。
チャニング・
ポロック

Channing Pollock(1926-2006)

現存のビデオで彼の演技を見ることが出来ますが、彼が創立したと言われているその鳩出しの美しさは筆舌につくしがたいものです。彼のデビュー当時のアメリカでは、ナイトクラブもマネージメントの世界でもマジックはまったく認められておらず、彼の全く欠点が無いと批評されるパフォーマンスの美しさによって開眼させられたと言われています。その後、俳優としても認められ、日本でも公開された「怪盗ロカンボール」をはじめ、数本の映画に出演しています。
リチャード・
カーフマン

Richard Karfman(1958-)

マジシャンというより編集者やマジカル・イラストレーターとしての方で有名です。本人が著書になるマジックの本も「Cardworks」をはじめ数冊ありますがグリーンバーグと共同で出版した本の数は、80冊にもおよんでいます。彼の出版する本の特徴はすべてが挿し絵の美しい大型の豪華本で、英語が読めなくても一冊は書架に置いておきたくなるものです。93年にマジックの月刊誌として最も有名な「GENII」の出版人であるビル・ラーセンが亡くなり、雑誌が消えることを惜しんで、カーフマンがその権利を買い取り、出版編集を引き継いでいます。
ポール・ハリス

Paul Harris

「the Close-Up Classics」などのビデオで見る通り一風変わった風ぼうとキャラクターの持ち主で、年齢も不詳です。「Super Magic」をはじめ一連の著書の出版は、クロースアップ業界に衝撃的かつ鮮烈な印象を与えました。ハリー・ロレインが77年末に出版をはじめた「アポカリプス」の1号目に、ハリスを登場させ彼の「Interlaced Vanish」を紹介したのが、爆発的な人気を勝ち取るプロモーションになっています。ちなみにこのときのイラストは、まだ無名だった20才のカーフマンが描いています。マジックにおける技術もパフォーマンスも素晴らしく70年から80年代にかけて「Re-Set」などオリジナリティーあふれる素敵な作品をいくつも発表しています。
アレックス・
エルムズリー

Alex Elmsley
(1929-2006)

マジック研究家ですが、本職はマジシャンではなく、コンピューターの技術者です。彼の考案したゴースト・カウントは後にElmsley Countと呼ばれ有名になり、カードマジック中、最も有用な技法のひとつになっています。作品の数は多いにもかかわらず、いくつかのレクチャーノートや、L・ギャンソンの本の中に紹介されているくらいで、その姿は謎に包まれていましたが、1991年に、彼のマジックを集めた「Collected Works Of Alex Elmsley」全2巻の刊行、1995年には、彼のインタビューやマジックなど、自身の手によって解説される全4巻のビデオが発売されたため、今まで謎に包まれていた部分のベールが取り外されました。
フィル・
ゴールドスタイン

Phil Goldstein

Max Mavenの名でも知られています。日本語が達者で、来日するときはマックス名人と、Maxの名をもじって活躍しているため、ゴールドスタインと聞いてもピンと来ない人がいるでしょう。Maxの名のときは、主にメンタルマジックを演じ、本名のPhilのときは、マニア向けカードマジックの研究家となります。研究家と書いたのは、カードマジックでは並々ならぬアイディアを持ち、素晴らしい作品を数多く残しているのですが、実演となると並の腕前になってしまうからです。したがってMaxの名を冠したメンタルマジックのビデオはありますが、Philの名のビデオは存在しません。
マイケル・アマー

Michael Ammar(1956-)

17才のときからスライハンドを得意として、心理学の勉強をするかたわらマジックを学んでいました。世界的にマジシャンとして有名になったのは、26歳の時にFISMのゴールドメダルを受賞してからです。また、マジックの教え方には定評があり、ダイ・バーノンの影響を強く受けクロースアップのクラシックやそのセオリーをマスターし、各地に旅行してはレクチャーを催しAcademy of Magical Artsから「レクチャー・オブ・ザ・イヤー」を受け、最も若い受賞者になっています。最近では、クロースアップ・マジックのクラシックをレクチャーする「Easy Master」シリーズが好評です。
石田天海

Tenkai Ishida
(1889-1972)

クロースアップの技術であるTenkai Palmは、世界のマジシャンの誰もが使っている有名な技術です。日本が生んだ世界の奇術師で、24年にマジシャンとしてアメリカにわたりました。1950年代の終わり頃、帰国した天海さんは、日産の提供するテレビのマジック番組で、鮮やかなクロースアップ・マジックを毎日演じていました。生番組でビデオの無いころですから、この貴重な映像を所有している人はこの世に誰もいないでしょう。アメリカのMagic Limitedから出版された「The Magic Of Tenkai」他、彼のマジックや履歴を紹介した本が、日米で数冊、出版されています。
ハリー・
アンダーソン

Harry Anderson(1952-)

マジシャンでありコメディアンでもあり、サタデーナイトライブにも何度か出演して、べらべらとしゃべりまくりお客を煙に巻いていました。マジックの腕前も大したものですが、プレゼンテーションの楽しさは抜群。日本ではこうしたマジシャンには、お目にかかれません。賞も沢山獲得しているアメリカらしいマジシャンです。オリジナルのマジックもいくつか市販されていますが、ライブで収録した彼のパフォーマンスオンリーのビデオ「Hello Sucker!」が楽しいです。見てない人は必見の価値あり。
マーク・ウィルソン

Mark Wilson
(1929-)

1958年のこと、米国中に普及し出したテレビに目を付けたマーク・ウィルソンは、彼のショーをテレビで放送してもらおうとロスアンジェルスにやって来ました。しかし、テレビではマジックは受けないと門前払いを食わされ、テキサスに戻ったのですが、そこでくじけず彼は自分でスポンサーを見つけ出しCBS-TVに掛け合いました。その結果、1960年、日本でも有名な彼のマジックのショー番組「アラカザンの魔法」がレギュラー放映されることになりました。番組は65年まで5年にわたって人気を誇りました。奥さんや息子さんなど一家でマジックを行うことでも有名ですが、彼の名を冠したマジックの教育ビデオなども出しています。71年のテレビ番組を記録したビデオ「The Magic Circus」があります。
ハリー・ロレイン

Harry Lorayne
(1926-)

クロースアップ・マジシャンですが、記憶術としても世界で何冊もの本を出しベストセラーになっているほど有名です。 「close-Up Card Magic」は、62年に出版されたマジックの入門書としてベストセラーの好著ですが、比較的分かりやすい英文なので英語初心者でも十分楽しめます。来日してレクチャーも開いていますが、手紙をだせばすぐに返事をくれる気さくなおじさんです。
 78年から20年間にわたって刊行されたクロースアップマジック誌「Apocalypse」は偉業です。最近復刻版が出版されました。マジックの本もビデオも沢山出しています。
ポール・ダニエルズ

Paul Daniels
(1938-)

イギリスのベテランマジシャンで、10年間続いた大人気のマジックショー番組を持っていました。日本でも80年代にNHKの衛星放送で何本かが放映されています。ほとんど予告なしに、夕方突然放映されるので、気付かなかったマジックファンも多いでしょう。色々なジャンルのマジックを扱いますが、テレビではメンタルマジックの不思議な現象をいくつも紹介しています。Mr.マリックのテレビは、この番組を大いに参考にしている感じです。ビデオはSteavensから出ていますが、パフォーマンスのみです。
ダグ・ヘニング

Doug Henning
(1947-2000)

カナダ出身のダグは、歌も踊りも芝居も出来ませんでしたが、スライディーにやヴァーノンにマジックを習い、27歳の時、ブロードウェイでスターダムにのし上がりました。親友のアイヴァン・ライトマン(その後、監督として大成功)と組んでカナダでロックコンサートを成功させていた彼は、それを下地にして「The Magic Show」というマジシャンのミュージカルを制作し、ブロードウェイに掛け大成功したんです。79年に来日して、新宿のコマ劇場で公演を行っています。全米のテレビなどで大活躍したあと、87年にすべてのマジック道具を売りに出して、インドで瞑想の修業をするために突如引退してしまいました。2月にガンでなくなった彼をしのんで「Genii」が4月号で特集を組んでいます。
ジョン・ハーマン

Bro.John Hamman(1927-2000)

Hamman Countで有名なカードマジックのエキスパートです。他にもいくつもの有用な技法を編み出しているだけではなく、素晴らしいオリジナルが沢山発表されています。ビデオも出ていますが、「The Secrets Of Bro.John Hamman」は名著です。Johnを見いだしたポール・ルポールが、彼のマジックを評して、オー・ヘンリーの小説を読むような意外性にみちていると言い、また「ジョンは客をガーデンの小道に導きだし、彼の思うところの場所に立たせると、いきなりスプリンクラーをひねって水を浴びせかける」とも表しています。カードマジックをやる人の中で、彼のマジックを一つも知らないという人は、まず居ないでしょう。
ポール・ルポール

Paul LePaul
(1900-1958)

サインしたカードがいつの間にか、財布の中のジッパーの中にある封のされた封筒の中に入ってしまうマジック、といえばクロースアップマジシャンなら誰でもレパートリーにしています。ポール本人はクロースアップのマジシャンというより、ステージのすべてをカードのマニュピレーション・オンリーで組み立てることの出来るテクニシャンです。両手からカードが出現する技法はポールが初めて作り出しました。厳しい練習を積むマジシャンとしても有名ですが、マジシャンが見ても不思議なマニュピレーション技を沢山持っていたそうです。少年の時にカードに興味を持ち、20才の時にはプロとして成功していました。今となっては古くなってしまった感のある「ルポールのカード奇術」という本がありますが、何故か邦訳されています。
リッキー・ジェイ

Ricky Jay
(1948-)

カード投げで有名なアメリカのスライハンド、あるいはクロースアップのマジシャンです。ラスベガスで人気を博すより、モンブランやヒマラヤでの方がミステリアスで彼には似合っていると評され、本人もそちらが好みだそうです。「マジックボーイ」など、映画・テレビのテクニカル・アドバイザーとしても活躍しています。とくにカードのテクニックにかけては、リッキージェイと52のアシスタントというポスターがトレードマークになっているほどの実力派です。カード投げを解説した本はあっても、実演の観られるビデオなどがないので、本人のテクニックは「X-ファイル」の日本公開を待つしかありません。
ステュワート・
ジェイムス

Stewart James
(1908-1996)

往年の大スターであるジェイムス・ステュワートがマジックを作っていると間違えられるほど、人との交流をあまりしないマジシャンでした。8歳になるまで両親は友だちを与えなかったので、通信販売のマジックカタログによって彼は夢の世界を広げました。そして、71年に父親が建てた一風変わった家の中で、ほとんど外出をせず、マジックばかりクリエートしていたので、残した彼の作品の数は膨大なものとなりました。89年に、彼の作品が400点載った千頁の豪華本がアメリカで出版されましたが、最近、同じような豪華本が3冊組で発行されています。おそらく世界で一番マジックを作った人でしょう。「僕の夢は、作った数々のマジックが、僕の死んだ後ずっと長く、人々によって使われ愛されて行くことです」というコメントが残っています。
ユージン・バーガー

Eugene Burger(1939-)

哲学や宗教の教師を経て、プロマジシャンになった人だけに、語り口に独特な雰囲気があります。米国ではとても人気があり、ビデオも本も沢山出していますが、ほとんどは、誰もが知っているような昔からあるマジックを、彼流の演出をほどこして解説したものです。また、「The Experience Of Magic」という本では、マジックだけではなく、どうやってマジックがうまくなっていくか等、エッセイとマジックを交互に取り上げています。この中に、天井から下りてきた蜘蛛を飼い猫(彼は猫好き、両親は犬好き)がどう対処したか、そしてそこから何を学んだかとか、彼のマジックを覚えて見せてくれた青年の欠点を、ヤギだと思い込んでしまったトラの子供の話に喩えて語ったりするのですが、如何にも彼らしく、哲学的だったり宗教的だったり、教師のように人生の教訓などを適当に交えてユーモラスに話しかけています。
マックス・マリニ

Max Malini
(1873-1942)

その伝えるところが伝説なのか歴史なのか、嘘なのか本当なのか解らないというのが、この頃のマジシャン達ですが、マリニの伝説も、「焼かれて食べられる寸前のチキンが、彼のマジックによって生き返り、ガーガーと鳴いて皿から飛び出し、厨房へと走って行った」とか、数々残っています。マリニはポーランドとオーストリアの国境にある街に生まれ、幼いときに家族と共にニューヨークに移住しました。12才のころに、アクロバットをやり始めますが、それから3年後、火を食べたりする腹話術師セイデンと知りあいマジックの道にと入りました。しかし、セイデンはマリニに主にカップス&ボールなどのスライハンド・マジックを教え、その影響で彼は日常品を使って演じるマジックを次々と開発することになります。マリニの卵と袋は特に有名です。
ハリー・
ブラックストーン

Harry Blackstone
Sr.(1885-1965)
Jr.(1934-1997)

二人のブラックストーンがいます。先代はフーディニと同じ時代に肩を並べ評され、Saturday Evening Post誌が「米国のナンバーワン・マジシャン」と折り紙をつけるなど、20世紀半ばにはすでに伝説になっていたマジシャンです。1929年に出版した初心者向けのカードマジックの本と、煙草のアクトからイリュージョンまでを網羅した「Secrets Of Magic」は、共に10万部以上を売り上げています。
ジュニアの方は、子供のときから父親のショウに出演し、大学を出たころには、テレビや劇場で「消える鳥カゴ」などのスタンダップ・アクトを得意とするマジシャンとして活躍していました。70年代になってからは、大人数のスタッフを使ってのビックショーを劇場中心に行なうようになり、80年にはブロードウェイでマジック・ミュージカルのロングランを打ち立てています。
アル・コーラン

Al Koran
(1914-1972)

お客さんから借りた指輪がいつの間にかキーホルダーに入ってしまう「リング・フライト」を見たことが無い人はいないでしょう。彼は、その他に「ゴールド・メダリオン」やコーラン・デックの作者としても有名です。若いときは、ヘアドレッサーが職業で、マジックは趣味としてイギリスのサークルに入って活動していました。29才のときにプロに転向し、以後、20年にわたってイギリスで活躍していましたが、常に米国に渡る夢を持っていて、69年の1月、ついにシカゴに移住しました。その後、ナイトクラブを中心に活動し、仲間のマジシャンからは圧倒的な指示を得ることができ、米国でのメンタリストとしての地位を確立しました。知性的でミステリアスでその技は職人的であると評され、米国の人気番組エド・サリバンショーにおいては「驚きの帝王」と称されました。
スライディーニ

Tony Slydini
(1901-1991)

マジックの文献がまだ少ない60年代に、教科書のようにもてはやされていたのがL・ギャンソンの書いた「スライディーニのマジック」でしょう。イタリアで生まれヴェノスアイレスで育った彼は、ラテンアメリカの文化の影響を大きく受けています。30年にアメリカに移住し活躍します。初期の頃の写真を見ると、闘牛士のようなスパニッシュの衣装で写っています。スライハンド・マジックが得意のジャンルですが、47年ごろニューヨークに戻ってから後の40年間は、マジックを教えることに情熱を燃やしています。ミスディレクションのスライディーニと呼ばれるだけあって、マジックを演じるときの動きを重要視し、生徒にはゼスチャーのひとつひとつから丹念に教えたと言われています。
高木重朗

Shigeo Takagi
(1930-1991)

その昔、力書房から発行された季刊誌「奇術研究」の創刊号から連載された「海外カード奇術解説」は、それまでショップで紹介される日本の手品しか知らなかった多くのマジック愛好家たちに、大きな衝撃と、ワクワクするような奇術に対する期待感を生みだしました。カードだけではなく、世界のマジックを書物やレクチャーなどで紹介してくれた功績は多大なものがあります。日本の現代アマチュアマジックを大きく発展させた功労者として、高木さんの名をトップに掲げる人はとても多いでしょう。また、亡くなられた後にも、多くの出版物やビデオがあいも代わらず、マジック関係の教育の中心を占めているのを見ても、その偉大さが分かります。Palebarer's Reviewが希少なころ、お家の中は書物でごった返しどこに何があるか分からないという状態にもかかわらず、半分を見つけ出し、わざわざコピーして持ってきてくださった時には、大感激でした。あと半分も探し出して、じきにコピーするから、と言ってくれた高木さん・・・それがお会いした最後でした。
カーディニ

Cardini
(1895-1973)

本名リチャード・V・ピッチフォー ド、英国生まれの奇術師。イギリスでマジシャンとしての地位を得ようとしたが成功できず、1926年からはアメリカに渡り、受け入れられ活躍した。シガレット、ボール、カードなどで手練 を駆使したマジックとパントマイムでショーを確立させた。第一次大戦に参加した彼は、極寒の地において塹壕で常に練習に励んだため、手袋をしたままミリオンカードを演じることができるようになった。それが後に彼のトレードマークにもなった。シルクハットに燕尾服、そして片眼鏡のスタイルを活かし、テクニックを駆使しているにもかかわらず、コミカルで粋なマジックパフォーマンスは圧巻である。

ノーム・ニールセン

Norm Nielsen(1934-)
バイオリンを使ったゾンビを一度はご覧になったことがあるでしょう。シカゴの北にあるウィスコンシンで生まれ、町の床屋さんがデモンストレーションでやるマジックについて回り、影響を受けました。18才のときにプロマジシャンとして開眼し、結婚して家族と一緒に世界中を旅して回りましたが、旅が好きではなかった奥さんとそのために離婚しています。日本にも何度か来日したことがありますし、東洋に大きな影響を受けているので、そのパフォーマンスの中にそれにちなむものもあります。また、素晴らしいマジックの道具の製作者でもあり、マジックのコレクターとしても有名です。特に、マジシャンのポスター類は、そのレプリカも含めて膨大なコレクションになっています。
チャールス・
ジョーダン

Charles Jordan(1888-1944)

彼はマジシャンと言っても、数人の仲間にしかマジックを見せたことがないと言われるほど、活動のほとんどが執筆とマジックの創作に限られています。10才のときにKellerのパフォーマンスを見てマジックの虜になったそうです。56才で心臓マヒで亡くなるまでに沢山のトリックを残していますし、カードマジックにおけるいくつもの原理を発表しています。「メール・オーダー」によるマジックの提供をしていたことも有名ですが、ファントム・エイセスなどを含む1919年に出版されたカードマジックの本、「サーティー・カード・ミステリー」が世界に彼の名を知らしめた代表作です。また、彼の作ったジョーダン・カウントはマニアなら誰でも知っています。
リチャード・ロス

Richard Ross
(1946-2001)

オランダのプロマジシャンです。ロス独特の溶けるように行なう3本のリンキングリングの演技は素晴らしく、誰もが魅せられます。この5月20日に55歳の若さで、惜しくも去ってしまいました。数々の賞を受賞していますが、FISMで、2回のグランプリを受賞受けたマジシャンは世界で彼一人です。実力あるマジシャンの巨星がまたひとつ消えてしまったようで、とても残念です。ビデオや本が残っていますので、見られていない方は、必見です。ぜひ、ご覧下さい。アムステルダムで育ったただのストリートボーイだったロスが、成長して世界中に友達を持ち、世界中の人達から愛されるプロマジシャンとなり、その死後も彼の素晴らしいパフォーマンスは人々の心に生き続けることでしょう。
マイケル・スキナー

Michael Skinner(1947-1998)

17歳のときに、ニューヨークにある小さな図書館でマジックの本を借りたスキナーは、独学でマジックを勉強しコンベンションに出るまでに上達しました。そこで、エディー・フェクター他、何人かのプロマジシャンに出逢いますが、本格的にプロへの道を進みだすのは、20歳のときにハリウッドに移住しダイ・ヴァーノンなどのウェストコーストマジシャンに出会ったときからです。そこで、クロースアップをたたき込まれた彼は、どこにでもある日常品をマジックにしてしまうことで、その名を高め、大衆的なプロマジシャンとなります。71年にAcademy of Magical Artsのベストクロースアップ賞を受賞し、72年に来日しています。76年以降、彼は、ラスベガスの賭博場で週に5日の勤務する住み込みのマジシャンとして活躍していました。亡くなる寸前、不自由な体にもめげず、何本かのクロースアップのビデオを残しています。
ゲイリー・オウレット

Gary Ouellet
(1945-2002)

マジックの出版物の著者として、テレビのプロデューサーとして、あるいはショーのコンサルタントとして有名になる前、ゲイリーはカナダの弁護士として活躍していました。最初に彼が興味を持ったのはクロースアップマジックで、70年代から80年代にかけて「Revelations(全9巻)」他、多くの研究ビデオをセミプロのマジシャンとして残しています。78年にはガイ・カミランドと共に「Camirand Academy Of Magic」を設立しオリジナルのトリックやテクニックを発表しています。その後、デビッド・カッパーフィールドのショーのコンサルタントを始め、NBCなどのTV界に沢山のマジシャンを出演させています。また、一時期テンヨーの顧問も務め、日本向けにグッズを紹介していました。
ディレック・
ディングル

Derek Dingle
(1937-2004)

クロースアップ・テクニシャンとしてあまりにも有名です。代表作に「シンパセティック・カード」など。ロンドンに生まれて8歳のときからマジックが好きでしたが、25歳まで、いわゆるスライハンドのマジックには手を出しませんでした。空軍の仕事でカナダに移った時にロス・バートラムと出会い、それがきっかけでコインやカードにのめり込みました。32歳でニューヨークに移住し、タネンのマジックショップを中心にマジシャンとの交流を深めて行きます。2年後にハリー・ロレインと知り合い初めての小冊子が出版されます。32歳、彼はエンジニアとしての仕事をやめ、マジック関係の仕事に専念。82年にリチャード・カウフマンが名著「The Complete Works Of Derek Dingle」を出版。04年の1月、動脈系の病気で亡くなるまで、アメリカ・ヨーロッパと、レクチャーのツアーで活発に活動していました。